
太地喜和子は出生の秘密をさぐろうとしていた。本当の親は誰なのか。母稔子は証言する。昭和18年12月2日の真夜中だと。寒かったと。これは信じられる詳細な描写だ。喜和子は中野本町通りに生まれてあちこちに転々とした。ということになっている。だが別の重大な証言もあるのでそれは後で述べる。
落ち着いたのは河田町だった。徳川邸のあったところを13軒の長屋にしたもので一応都営住宅。以前フジテレビがあった付近である。近所の仲之幼稚園に通う。この頃のことはテレビである男性に「あたし抜弁天に住んでたのよ」と語ったことがあるが確かに河田町はそう遠くない。9歳の時にお宮様で踊りを披露しているのでそれが抜弁天かもしれない。焼け跡の銭湯のタイルが残っていてそこで男の子を何人か裸にしてずらり並ばせて赤チンを塗って遊んでいた。お医者さんごっこ。だが、男の子は泣いた。近所で子供がけんかしたり泣くとたいがい喜和子のせいだった。大人になって河田町の実家の近くにアパートを借りた。合羽坂の左の路地を入ったところだ。
昭和43年2月発表、映画「藪の中の黒猫」で喜和子は脱いだ。初めてではないがスルッと着物を落とすとそこには喜和子の裸身が。お尻が小さい。まだ撮影当時24歳で若々しい彼女が見られる。中村吉右衛門と2ヶ月ぐらいしか年齢が違わない。昭和45年の映画「裸の19歳」では中々出て来なくて諦めかけたころにチョイ役で喜和子。全学連の実写版入り。原田大二郎と同棲するがすぐに前の男と再びくっついて博多へ。
ここで強調したいのは喜和子の星座の配置である。太陽から冥王星までの10個の天体が全部男性宮なのだ。珍しい。太陽が射手座、月が水瓶座、水星が射手座、金星が天秤座、火星が双子座、木星が獅子座、土星が双子座、天王星が双子座、海王星が天秤座、冥王星が獅子座。木曜日生れ。海外では女性は見つからない。性格はストレートで人道的。知性や言語表現もストレート。恋愛や愛欲は社交的で好奇心いっぱい。淫乱ではなくサッパリしたタイプ。社会的性格は自己顕示欲と知性派タイプ。シンガーソングライターのランディ・ニューマンが9個か10個。日本では車だん吉が9個か10個。「いいじゃなーい」の元晴乃タックの高松しげおが10個。欧米女性では9個はカトリーヌ・ドヌーヴ。日本では緑魔子。喜和子から4日後の12月6日の星由里子は車だん吉と同じ誕生日。同じ若大将シリーズの酒井和歌子も9個。
いや一人いた。昭和56年9月創刊号の『写真時代』白夜書房の83〜90ページの荒木経惟劇写「少女フレンド」の「初潮少女」の豊島由樹子だ。昭和47年8月1日生まれ。この子も男性宮10個。今ごろは33歳。ファンタオレンジをラッパ飲みしている。ただし血液型はB型。このころまだいたいけな8〜9歳なのに色気がある。この子のドラゴンヘッドは女性宮。上昇宮はわからない。
喜和子は血液型A型でドラゴンヘッドも上昇宮も男性宮なのだ。ドラゴンヘッドは獅子座。上昇宮はその人の体質や外見を表すとされるが近年この説の信憑性が薄らいできた。決して美人ではない喜和子だが上昇宮が天秤座で一応美人の星座である。あの両親の子で美人だとあのぐらいになる。もっとも両親に似ていないが。鼻つきは母稔子に似ていなくはない。喜和子の鼻があと5ミリ高かったら日本の演劇界もずいぶん変わっていただろう。いや喜和子はあの顔でいいのだ。
・太地喜和子の出生を推理する
昭和18年12月2日の真夜中に中野区で生まれたとしてホロスコープを作ってみると、真夜中というだけでは時刻が分からないので一般的に午前2時ぐらいと考えられるが午前3時の場合も考慮に入れてデータを出してみる。
【午前2時に生まれた場合】
アセンダント(上昇宮)は天秤座の11度58分。
第1室に金星、容姿に関係する。多くの人から好かれる。
第2室に太陽、経済的安定を示すが使い方も大胆。
第3室に水星、知識欲がある。水星がいて座なので直感的思考。
第4室に月、母親からの影響大で家庭生活を大事にする。
同じくドラゴンテイル、家庭において因縁を背負う。
第5室は惑星なしでみずがめ座の15度55分から
第6室も惑星なしでうお座の15度57分から
第7室も惑星なしでおひつじ座の11度58分から
第8室は天王星、祖先からの才能を受け継ぐ。性的におおらか。オカルトに関心をもつ。
第9室は火星、冒険心、旅行好き、議論好き。
同じく土星、探究心。
第10室は冥王星、仕事熱心。
同じくドラゴンヘッド、天職を得る。
第11室は木星、私利私欲を捨てる。
第12室は海王星、他人の不幸に同情する。
【午前3時に生まれた場合】
アセンダント(上昇宮)は天秤座の24度24分。
第1室に惑星なし。
第2室に太陽(午前2時と同じ)、
同じく水星、経済観念がよく合理的。
第3室に惑星なしでいて座の23度59分から。
第4室に月(午前2時と同じ)、
同じくドラゴンテイル(午前2時と同じ)
第5室に惑星なしでうお座の0度09分から。
第6室に惑星なしでうお座の29度30分から。
第7室に惑星なしでおひつじ座の24度24分から。
第8室に火星、不倫問題を起こす。
同じく天王星(午前2時と同じ)。
第9室に土星(午前2時と同じ)
第10室に木星、人に尊敬される。
同じく冥王星(午前2時と同じ)、ドラゴンヘッド(午前2時と同じ)
第11室に惑星なしでおとめ座の0度09分から。
第12室に海王星(午前2時と同じ)、
同じく金星、ファザコン、マザコン。
という結果。どちらがより喜和子に近いか難しいところだがどちらかというと午前2時出生ではないか?気になる水難の相は見当たらない。火星と天王星がほぼ同じ位置にある。
昭和48年3月公開の映画「花と龍」で若松連歌町遊郭の娼婦光子役が喜和子。渡哲也の息子勝則役が竹脇無我。撮影当時二人とも28歳。光子と勝則の行為のシーンは前代未聞。第七富洋丸で光子がマニラへ追放されるシーン、「勝則さーん」「みっちゃーん」二人激演。その後、勝則はマニラへ飛んだ。『上田敏訳詩集』に光子の書置き。「かあちゃん。こんなところから、かあちゃんと呼んでいます。かあちゃん、知っててくれますか。私はあの電気のいっぱいついた高い塔の見える安いホテルのベッドのある部屋で、あの人と二人だけだったひと月のことを考えると一番幸せです。私はこんなに白粉をつけて汚れてしまったけれど誰よりもどれよりも幸せです」この映画の2年後テレビでその後のトレンディードラマのはしり「ガラスの森」に竹脇無我や田村正和が出演していて喜和子がチョイ役でからむシーンがあるが竹脇が少し照れていた。喜和子は酒井和歌子とニアミスしている。これも稀なことだ。
昭和48年の「喜劇男の泣きどころ」という映画でフランキー堺とストリッパー役で共演している。フランキー堺は谷崎潤一郎、司馬遼太郎、大江健三郎、石原慎太郎、坂本九(最近では反町隆史)などと同じ太陽、月、水星、金星、火星の5個とも男性宮の持ち主。喜和子とフランキーは関係を持ってしまったが芝居のことは喜和子が譲らなかった。この映画で玉川良一が共演しているが喜和子の劇団葬の日に玉川も死んだ。
昭和47〜48年頃のテレビ「木枯らし紋次郎」シリーズの「怨念坂を螢が越えた」で居酒屋のお酌女お六役の喜和子が螢の源吉役の高橋長英に「しょうがないやねえ、私みたいな女は生い立ちまでがどこまで本当でどこまで嘘かわかんないんだから」と言うセリフ、ゾクっと来る。おススメ。
昭和51年の映画「男はつらいよ・寅次郎夕焼け小焼け」で芸者ぼたんの役。記者会見では前日の喧嘩による傷を隠すため鬘を被って出席。この時寅さんは脇役っぽい。喜和子のぼたんと宇野重吉の青観が天秤のように重要な役だったので寅さんは橋渡し役。
昭和53年放送の横溝正史シリーズドラマ「黒猫亭事件」は喜和子の登場シーンが多くアップも多い。これもおススメ。フィルム撮影だった。中々出来のいいドラマ。「藪の中の黒猫」でシゲの役。「黒猫亭事件」でも繁(しげ)の役。どちらも黒猫が登場する。同じ年のテレビ版「白い巨塔」の財前五郎役は田宮二郎である。田宮は喜和子と対称的に女性宮が9個。この組み合わせは何なんだろう。「五郎ちゃん」と呼べるのは喜和子だけ。本名柴田吾郎だから田宮も本気でこの役を演じていた。田宮は無名時代、昭和32年「透明人間と蝿男」という映画の冒頭シーンで旅客機の座席で新聞を読むエキストラをやっている。佐々木小次郎の役の時は武蔵が高橋英樹。高橋は田宮と対称的な男性宮8個である。小次郎の死に様は印象的であった。武蔵も負けじと小次郎を倒した後、海岸ぷちを走る、走る。田宮の自殺の後のインタビューで喜和子は車でさよならしてそれきりでした、と簡単に答えた。喜和子は「あたし不感症なの」という。本当だと思う。とはいえ代々木上原で喜和子と寿司食べたらうまいだろうな。
『喜和子追想』という本の背表紙の写真は父親が撮ったもの。この写真が一番いい。ゾクっと来る。うちに前来ていたヤクルトレディに似ている。微笑しているがどこか不幸っぽい。「不幸な感じの方がいいじゃない」と喜和子は言っていた。自分を貧乏だと思っていた。子供のころ河田町の長屋の家の近くに小屋掛けの芝居小屋ができた。喜和子は母に連れて行ってもらった。見栄をきればおひねりが飛んでくる。喜和子はこんないい商売はないと思い小学生で芝居小屋を訪ねた。「役者になりたい」「学校終わってからおいで」役者になって親を養おうと子供心に思ったのかもしれない。大人になってからも、うちは貧乏だったからとかうちの親は本当の親じゃないとか自分を哀れに身を置きたかった。樋口一葉の『わかれ道』の傘屋の吉三は本当の親は乞食かもしれない、生まれるとすぐに橋の袂の貸し赤子に出されて子供の時から角兵衛獅子をやっていたのだからそうかもしれない、と自分の身の上を嘆く。喜和子も物語の不幸な身分にちょっと憧れていたのか。三国連太郎の出生の話は眉唾ものである。彼はデビュー当時に旧制静岡高校から東大を出たという学歴詐称をしているくらいで三国の親は本当の親ではない。つまり出生の話も当てにならないということだ。喜和子は三国の不幸願望に乗せられてしまった。他のところでは私の最初の人は鶴田浩二だと言っている。尾上菊五郎や中村勘九郎にしたって一流だろうか。喜和子は歌舞伎という家柄を素通して芸の二流を見抜いていた。浅井愼平が語っているように喜和子は男だ。女形だ。勘九郎の女形よりうまい喜和子の女形。荒木町の山田ハイツはもう無い。
東映ニューフェイスの頃かテレビ「ナショナル・キッド」に志村妙子の芸名で出演している。小畑尚子役だ。歯切れのいいセリフまわしはこの頃からそうだった。喜和子は東映時代を語らない。牛込柳町から都電に乗って大泉の撮影所まで通っていたというのだから河田町の自宅から牛込柳町の停留所まで市谷薬王寺町や市谷柳町の商店街いわゆる外苑東通りを歩いていたわけだ。たいへんだったろうなあ。それにしても俳優座養成所によく受かったものだ。養成所の研究生のころ周りもみんな平幹二朗のファンだった。喜和子も平のことが好きで養成所の大きな木のゴミ箱の陰に待ち伏せして平が通った時喜和子は飛び出して「わたし研究生で平さんのことが好きです」と言った。喜和子が好きなのはやさ男が多い。のちに「近松心中物語」で共演する時その話をしたら平は「あの時の変わった子、君だったのか」と思い出した。平とは816回共演した。11〜2年間で7本の芝居。喜和子は日本の芝居が好きだった。日本の悲しい女が好きだった。華があって耐える不幸な女の芝居は右に出る者はいないと平は言う。男のために常に尽くす女。遊女梅川なんかパッと抱き合った時にスポッと入ってくる。とにかく飛び込んでって抱かれた末にいい格好になる女優だった。平は喜和子とあまり酒は飲まなかった。色々な話をして次の日、照れとして出るのであまり飲まないようにした。平と800回記念の時「一本刀土俵入」をやった。喜和子が駒形茂平をやって平がおつたをやった。快感だった。褌みたいなパッチをやってタオルみたいなパットをやって男のようにひっくり返るところがあるから。そういうのが好きだった。「近松心中物語」では雪が30センチ積もった冷たい中で熱いくちづけをする。森進一の流行歌(喜和子曰く)がかかる。
喜和子はふだんジーパン。役は着物やモンペだったりする。一流芸者じゃなく二流だったり太夫じゃなくて次のだったり。酒飲んでる時は幸せ。うちに帰って一人で冷たいベッドに入る時不幸だなと思う。酒は一番好きなのは日本酒。酒風呂も入ってみた。酒の香りも良く肌がすべすべになるが勿体ないので二日でやめた。酒を飲みすぎると容色が衰えると言われ鏡を見る。大丈夫だと思う時は酔っている時。顔はふくよかだけど身体はゴボウみたいに上から下までストーンていう感じ。ぺチャパイでお尻も少年のように小さい。髪が短い時映画館で男と間違えられたこともある。文学座だって受かったのは喜和子の学校の成績は普通だったというから余程光るものがあったに違いない。「藪の中の黒猫」で全裸になる時頭がスーッと抜けちゃって真っ白になっちゃった。
杉村春子もオッチョコチョイだというエピソードがある。素に戻るのが早い。ギリギリまでお客さんとかとはしゃいでいても舞台では色っぽくやる。喜和子が楽屋で付いている時入ってすぐ研究生のころソデで着物持って待ってた。「あなたまだ入りたてなんだから余分なことやっちゃいけません」と言って舞台では艶めかしい。何秒間で早変わりでラブシーンの時10分前に待ってて喜和子はハイヒール履いててパッとやったら頭から被せちゃって「あんた蝉取りやってんじゃないのよ」と言ってすぐに「何とかさーん、何とかさーん」というラブシーン。あとで怒ればいいのにその瞬間にパパッと怒る。津坂匡章(秋野太作)と結婚したのはころんで蹴躓いたみたいなもの。女はしがらみみたいなものがあって色々なことをやらなきゃいけないから50歳ぐらいになったら疲れたと言って気が休まる人がいたら同じ屋根の下で一人ぐらい置いといてもいいんじゃないかな。喜和子が夜中に急に鬘かぶったり台本を読んだりしなきゃいけないから、そういう時にテレビなんか見られたらイライラしてきちゃうでしょ。だから一人の方がいい。会いたい時は喜和子から男に会いに行くのがいい。
昭和60年の映画「火まつり」は喜和子が重要人物だが水の中に肌着で入るシーンが印象的。やはり水が怖いのか半分素の表情。これがまたいい。水に濡れて肌着が透けてかすかに身体の線が見える。映画としては昇華が今いち。でもヌードのシーンはこれが最後。打ち上げの時(違う説もあり)に喜和子はヤケドをしてヌードになれなくなった。北大路欣也の他に宮下順子も出ていて平成2年の正月スペシャルドラマ「幻の殺意」で宮下が犯人と疑われる役。でも実は赤座美代子が・・・。宮下の老いぼれた旦那が小栗一也。この人はテレビ版「月光仮面」で柳木博士の役で品格のあるキャラクターだった。変われば変わるものだ。「まぼろし探偵」の日の丸新聞社の給仕みち子は文学座を離れた藤田弓子。喜和子と二人で日本酒二升は飲み干す酒豪。でも舞台の稽古中、喜和子は酒を断つ。愛車の黄色のフォルクスワーゲンを運転する。新宿内藤町の秀和レジデンスはまだある。文学座の後輩俳優と共演してつきあってもいた。結婚してもいいと思った。俳優には妻がいた。喜和子の父喜一にも彼は会った。喜一は心筋梗塞で病院のベッドで臥せっていた。昭和62年1月5日喜一は心不全で亡くなった。前年の11月18日に入院してから危篤状態を何度かして喜和子は旅公演から何度か東京に戻っていたが正月は休みでずっと喜一のそばにいられた。喜和子の旅公演が終わるのを待っていたかのようだ。6日の通夜で喜和子は淡々として「パーッとやりましょう」と言って酒を飲んだ。酒が足りなくなって通夜の持ち帰りのお返しのお酒まで包みから皆出して飲みまくった。次の日は「笑っていいとも!」のテレフォンショッキングの生本番があった。カラッとして明るく振舞った。終わって1時間後には喪服で父喜一の葬式の喪主をやった。葬式でも喜和子は酒を飲んだ。喜和子が電話をして木原光知子を呼んだ。寂しさのあまり友達を呼んで酒を酌み交わせたかったのだ。昭和63年の映画「父」は木下惠介監督。ワンショットというかワンカットの長ぜりふが多い。喜和子の出番も多い。あらすじがあってないような映画。
志村けんのコントが好きで仲間と5回分録っておいたビデオを朝6時まで見て研究した。2回やって飽きるところは3回目はやらないとか逆にパターン化が面白く5回やっても面白いものは飽きないと喜和子は強調する。喜和子は志村けんに会いたいがためにテレビの番組に出演してしまう。緊張を隠すため楽屋の1時間半を5合の日本酒を引っ掛けて出演。新潟の雪中梅というめったに手に入らない日本酒の一升瓶を土産に持参した。志村けんも人見知りするタイプ。喜和子は「だいじょうぶだぁ」は全部見ている。志村と旅行できるならどこがいいかと訊かれ「どこでもいい池袋でも」志村は「じいさんとばあさん」のコントをやる。喜和子が喜ぶ。志村はアガってしまう。喜和子は感動した。志村のコント作りは喜和子たちの芝居づくりと同じだと言う。役者たちの世界で志村は天才だと言われている。コントが嘘っぽくなくていい。最後はプイと吹いちゃうから信じられる。クイズ番組でそっぽ向いている志村を見て喜和子はでんぐり返って飲んで喜んだ。志村は外人さんにもウケていると喜和子が言う。平成3年4月8日コント初共演。地面は雪が積もっている。喜和子は雪降りしきる中番傘を差してサシで勝負にいく姐御。現場に着いたら志村が「おめえひとりだろうな」喜和子「約束は守りますばい」志村は子分たちを呼び「おめえらやっちまえ」「一対一じゃなかったとですか」「やかましいわい」喜和子は子分たちを3人全部倒す。「死んでもらいます」志村は何回切られても生き返る。4,5回切って最後二人で倒れたところへ雪が上から何キロも落ちてきて二人とも雪まみれになる。「老けましたね」と志村。「失礼ね」喜和子。「コイケ!」「何ということを」のコントが面白いと喜和子は言う。こだわるところは絶対こだわる。飽きるところは絶対そのとき変えてると強調する。布団に入るシーンは嫉妬すると言う。たまには中年のオバサン布団に入れといてサやった方がいいよ。本当っぽく見せなきゃ絶対ダメだと。本当の志村けんを好きな人は本当が分かるからそれはちょっとと言う。諭す。あんたはロリコンだ。年増は皆、志村けん好み。志村より年上の女でも若さがあるのはいっぱいいる。年下の女でも老けているのはいっぱいいると。平成3年は年女で未年だという。志村はひつじの形をした大きいぬいぐるみの置物を喜和子にプレゼントした。コント。スナックのママ喜和子が一人カウンターでショートホープを吸いながらウイスキーのロックを飲んでいる。有線か何かで中島みゆきの歌がかかっている。そこへ客の志村が店に入ってくる。ママがハサミを持って志村の方へ歩み寄る。志村ははげしく怯える。歩み寄ってママは活けてある花の枝を一本切る。「やっぱりこの方がいいわ」志村は「何だ、こんなもの」と言って花を全部花瓶から抜いてしまう。
喜和子の肝臓は日本人では珍しくアルコールの分解に優れていた。だから肝臓は大丈夫だった。その代わり緑内障になった。医師の診断だと50歳には失明するとの見方があった。歌舞伎役者なら形を覚えているから花道から何歩、ここは何歩という具合に芝居ができるが新劇はそうはいかない。相手役とからまなければいけないし抱き合う場面もある。方々の占い師に52歳で死ぬと言われていた喜和子。役者人生もあとわずか。下田の公演を前にして伊東の海に沈んだ時に喜和子は瞬間的にここで死んでしまおう、と思ったかもしれない。特別注文の皮のブーツが全然傷ついていなかったということから海水の中でもがいた痕跡がないという。不思議な話だ。ちなみに下田は三国連太郎の生まれ故郷。別のところでは鳥取県出身という説もある。波が打ち寄せてきても後ろに下がるくらい水を怖がった喜和子なのに「海が見たい」というのも変だ。真っ暗で海なんか見えないはずだ。水泳は木原光知子に習っていた。50歳で失明するなら、いっそここで「唐人お吉」で死んでしまおうと思ったのかもしれない。魔がさしたのか?お吉の苗字が斉藤。運転していたスナックのママの名前が斉藤。漠然と50歳ぐらいになったら、うちに帰ってああ疲れたと休めるような男性と結婚したいと思っていた。その男性は古藤芳治。森岡俊一という仮名の男と同一人物かは不明。当時31歳。
喜和子は自分を孤児院で生まれた戦災孤児だと思っていた。そのことはお手伝いさんという存在があがってくる。そのお手伝いさんのところへ行って喜和子がどういう経緯で孤児と断言できるのかを聞いている。つまり親は別に居て今の母稔子が貰い受けたのだと。ガリガリに痩せた赤ん坊だった。本当の親のことは言えないと。だが貧乏でなかったにしても大所帯でもない家庭でお手伝いさんがいたという事柄自体が戦争の最中考えにくい。だからこのお手伝いさん証言説もにわかに信じがたい。山田五十鈴の隠し子だと喜和子は思い込んだことがあった。大女優というのは田中絹代、水谷八重子、杉村春子、山田五十鈴、乙羽信子、高峰秀子、ぐらいか。嵯峨三智子と喜和子が似ているという人がいる。違う点は喜和子が不感症だということだ。だから大女優というのははばかる。名女優という人もいる。喜和子のパントマイムは天才。学校の成績は普通だった。千代田女学園から松蔭高校だから推して知るべし。努力家だった。台本は紙が毛羽立つほど何十回、何百回読んだ。台本は生前には他人に決して見せなかった。努力を他人に見せたくなかった。赤座美代子が言う。女優を志してて青木、赤座、太地って青木というのは林隆三の妻。三人が本当に仲良くてそれ以来ずっと友だちでいたから心の中にポカッと穴があいたみたいで未だに信じられない。
木村哲人は語る。東映時代、彼は「ナショナル・キッド」の効果も担当していた。時には撮影所を抜け出して二人は石神井公園でデートを重ねた。デートでも映画や仕事の話ばかり。兄妹みたいな。冗談みたいに喜和子は哲にいちゃんのお嫁さんになるよって恋愛みたいなものじゃなくて一種独特な兄妹みたいな。将来スターになる素質があるというのは分かった。非常に光るものがあった。撮影の後夜中に木村の部屋に遊びに来た。酔ってしまうと赤い顔をしてうちへ帰るのがイヤだ、ということで木村の部屋に這入りこんで酔い醒ましをして。助監督がドアをちょっと開けて見たら喜和子が木村の布団の中にもぐりこんで寝てて、その枕元に木村が腕組みをして困ったような顔をして正座していた。兄と妹のような感じだったがほんのりとした恋愛感情。ある有名なスター(三国)が助監督に台本を渡してこれを忘れたから届けろ、と志村(喜和子)に言えと。で彼女はそのスターのところへ行ったまま数日間帰らなかった。ひょっこり出てきたらげっそりして別人みたいな顔をしていた。木村は思わず喜和子の頬をたたいてしまった。喜和子は木村にむしゃぶりついて「私は女の子の大事にしていたものを失くしちゃった。哲にいちゃんにあげればよかった」けれども喜和子はその大スターに呼ばれると出かけていった。そんな喜和子を見るのがつらくて木村は会社を辞めようと思った。東映に退社届けを出した。理由は失恋のため。会社を辞めてボーナスみたいな退職金をもらったので二人で熱海に一泊旅行に行った。三国の影を感じてしまって何もできなかった。二人で抱き合った。30年前別れてから二度と会うことが無かった。
平成4年10月13日の深夜、喜和子が夢枕に現れた。木村は30年ぶりに、事故のあった夜中の2時ちょっと回ったぐらいの時に夢を見た。一台の車が暗い中をゆっくりバックして来る。助手席の女性が、それが真っ白な女性が木村の方に深ぶかとお辞儀をした。もちろん喜和子さんと分かっている。分かるのだけれど名前を呼んじゃいけないんだと。必死に考えた。それで目が覚めた。喜和子はオルゴールを木村に送っていた。木村は喜和子に手作りの帆船を送った。置き忘れたオルゴール。ずっと忘れていた。事故があった翌日、昔の写真があったなぁと思って整理をしていた。棚の上から突然オルゴールが落ちてきた。そのショックでオルゴールが鳴り出した、ショパンの曲(ワルツ第3番イ短調作品34−2「華麗なる円舞曲」の冒頭部分、本当に悲しいメロディ)。喜和子は送ったオルゴールの「この曲を聴いたら私を想い出してね」と言った。ああいう事故が無かったらいつか、お互い歳をとったなぁと笑いながら会えばいいなぁと心の中にはあった。こうなってみると一つの宝物として心の隅に収めておきたいなと思う。家の形をしたオルゴールの入口の扉にキワコと鉛筆で書かれてある。オルゴールの裏にT.Kと彫ってある。太地喜和子のT.Kなのか木村哲人のT.Kなのか。喜和子が彫ったもの。木村は30年間テレビやお芝居を見なかった。凝視することが出来なかった。30年ぶりに夢枕で会った。夢枕に現れた喜和子が30年ぶりの笑顔だった。木村の妻は「私は太地さんの身代わりかもしれない」と言っていた。その妻は10年前に亡くなっていた。
劇団葬の時の杉村春子のインタビュー。もう本当に何て言っていいんだか、もう全く、まあ何てことでしょうね。どうしていいんだかわかんない。だってもう、本当にそこにいたんですもんね。皆さんにお世話になっちゃってありがとうございました。最後に会ったのは私、三越で芝居の時です。エエ、ですから、で、あのう、これから三越の芝居が終わって旅に立つからと、元気で行ってきますって電話かかってきて、それが声聞いた最後ですけどね。でも、あの、ちょうど、あのう、あの方が亡くなる一日か二日ぐらい前、あのう、休みがあったんでそれで若い女の人たちがみんな○○の芝居を観に来てね。太地さんもみんな、あのう、元気でお酒も飲んでるし、心配しなくても大丈夫だって。ゲラゲラ笑っていたと思ったらこんなことになっちゃった。あの方、泳げないんですね。私、知らなかった。エエ、アア、もう本当に何ていうんでしょうね。私ね、あの人ね、あのう、まあ惜しいとか悔しいとか、あのう、そういうことは別として。生きざまっていうの、あの人自分の思う通りに生きてきたんじゃないですか。言いたいことは言うし、したくないことはしないし、したいことはしたし。そういう意味で充分に生きてきたんだと思います。それだけに色々なものを見せてくれるでしょうね。これからね、これからですよ。顔見ない、見ない。だって、見たってしょうがないよね。生きてる時の顔の方が心に残る方がいいじゃないですか。で、私たち、あのう、本当にすれちがってると半年ぐらい会わない時。旅、行ったり色々したりしてると何処かで何かやってると思って、思ってるしかしょうがない。(遺影を見て)何だってと思っただけですよ。どうしてあんなところにいるんでしょうと思ってね。あの写真もよく見た写真だし。ケラケラケラケラ笑う声が聞こえるような気がしません?にぎやかな人だったですもんね。「センセイ!」って。今あの人は「どうしておいてっちゃったの」って言ってる。私があの人にさよならって言うことはないでしょう。あの人が言ってくれるんでしょう。ねえ、ねえ。エッ、あのう、やっぱり将来働いてもらいたい人だし柱になってもらいたいと思う人だ、と思ってましたからね。そりゃね、北村さんが(ブランチの役をやる)そう思ってたんだよって。その話をしたことないし、我々の芝居っていうのは伝承というのはあんまり役のことは。またあの人がやれば全然違うものになるんじゃないですか。それはそれでいいんじゃないですか。何をやるのか私のやった役を。あのう、まあね。そう思わなきゃしょうがないからそう思うのだけれど花の盛りに散ったってことね。このあと、どうなるかわかんない。私たちはもっともっと大きく咲くかもしれない。だけど、もう今満開ですからね。じゃないかと思うしかしょうがない。思うように生きてきたんじゃないんですか。ずいぶん言いたいことも言いましたからあの人。普通だったら言わないことも言ったし。そういう意味では悔いがないんじゃない。心に持ってたこと何も無かったんじゃない。とっても可愛かったこともあるし、とってもびっくりするくらいエエッ?ていうようなくらいのことを言うこともありましたよ。だからそういうものがないまぜになってるというのが役者として大きな財産じゃないですか。皆さんが太地さん、太地さんて言ってくださってね。あんだけ思い切った生き方をしたのに可愛がってくれたのはあの人の持ってるものの良さですよ。また帰って来てって。毒を飲んだ時、死んだと思った。びっくりする。そうじゃなかった。狂言だった。嘘だった。騙したね、っていう芝居のせりふがあるけど。そんなふうに言いたい。騙したね、って私たちを。
母稔子は語る。やっぱりいつまでも子供のような気がしてますから時々喧嘩したり怒ったり笑ったり。そういうことが多かったですから。正月をいつも一緒に迎えていたもんですから、今年のお正月は寂しいかなぁって。天国でお芝居してるかもしれない。いつか、ただいま!って帰ってくる。喜和子、どうしたのって気がする。
(母稔さんは平成17年11月19日逝去された。行年88歳)
お墓は巣鴨駅から近い都営染井霊園の勝林寺にある。
紅蓮院喜和静華大姉
平成17年10月記―平成18年10月更新